わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。
しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。
これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。
すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。
主はおのれの義のために、 その教を大いなるものとし、 かつ光栄あるものとすることを喜ばれた。
だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。
「この人は、律法にそむいて神を拝むように、人々をそそのかしています」。
それから、偽りの証人たちを立てて言わせた、「この人は、この聖所と律法とに逆らう言葉を吐いて、どうしても、やめようとはしません。
モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
「イスラエルの人々よ、加勢にきてくれ。この人は、いたるところで民と律法とこの場所にそむくことを、みんなに教えている。その上、ギリシヤ人を宮の内に連れ込んで、この神聖な場所を汚したのだ」。